フィンセント・ファン・ゴッホは『ひまわり』や『夜のカフェテラス』、『星月夜』などの名画を描いた偉大な画家ですが、今なお世界中の人々を魅了し、日本でも多くの人に愛されています。
しかし、生前に売れた絵はたった1枚だったともいわれており、彼の絵は当時、世間からは認められることはありませんでした。
ゴッホは27歳で画家を志し、37歳で人生の幕を閉じるまでの10年間、約2,000点もの作品を描いたといわれています。
なぜ彼は20代後半から絵画に人生を捧げ、画家としての成功を目前に、早すぎる死を迎えてしまったのでしょうか。
今回は「炎の画家」や「狂気の天才」と呼ばれた壮絶なゴッホの生涯について、わかりやすく簡単に概要をご紹介していきます。
後半はゴッホの生い立ちから晩年までの詳細なストーリーも解説していますので、興味があったら見ていってください。
- ゴッホの生涯はどんな人生?簡単に概要を紹介
- ゴッホの生い立ちから晩年までの詳細なエピソード
- 幼少期、兄弟では一番絵が上手かった(0歳〜16歳)
- 画商の仕事に就くも、失恋によって挫折(16歳〜22歳)
- 心機一転、宗教家を目指すも評価されず挫折(23歳〜25歳)
- 牧師から画家の才能を発見される(25歳〜26歳)
- 画家を目指すも家族から猛反対。孤独な放浪生活(26歳)
- 本格的に画家修行。弟の支援で絵画制作に没頭(27歳)
- 絵の勉強で華やかな都へ。金銭的な問題で実家に戻る(27〜28歳)
- 父を大激怒させた「ある事件」(28歳)
- 画家修業に苦戦。モデルと同棲も生活に困窮(29〜30歳)
- 貧困により同棲生活が破綻。1人孤独に旅立つ(30歳)
- 実家で母を看護しながら、画家の実力をつける(30〜32歳)
- 街から追い出され、アントワープで巨匠の絵に出会う(32歳〜33歳)
- 芸術の都パリで美術学校へ。弟は兄との関係に疲れ果てる(33歳〜35歳)
- 画家仲間との出会い。しかし絵は一向に売れない日々(33歳〜35歳)
- 弟の結婚、そして周囲からの孤立。パリを去りアルルへ。(35歳)
- 数々の名画が”黄色い家”で制作される(35〜36歳)
- ゴーギャンとの共同生活からゴッホの悲劇が始まる(36歳)
- 仲間を失った絶望で自ら耳を切り落とし、精神的な病を発症(36歳)
- 精神的な病と闘いの日々。画家としての評価が上がる(36歳〜37歳)
- 2ヶ月のオーヴェール滞在で、最期をむかえる(37歳)
- ゴッホの生涯について解説された本
- まとめ:ゴッホの生涯は壮絶な人生だった
ゴッホの生涯はどんな人生?簡単に概要を紹介
ゴッホは1853年、オランダの牧師の家に6人兄弟の長男として生まれます。
日本は江戸時代、ちょうどペリーが黒船で来航し開国した頃と同じ時期です。
成績は優秀でしたが中学校を中退、16歳の時、親戚から画商の仕事を紹介してもらい、就職しますが、業務態度が悪くなりリストラ。
その後父の跡を継いで牧師になることを決意しますが、試験が難しすぎて挫折します。
アルバイトのような形で『伝道師』として仕事を始めますが、こちらも試用期間で解雇されます。
しかし出会った牧師の一人から、デッサンの才能を評価してもらったことから、画家になる道に希望を見つけます。
家族からは大反対されますが押し切って、28歳の時に絵画の勉強を独学で始めます。
その後、極貧で絵を描く暮らしは続きますが、兄の画家としての天才的才能に気づいた弟テオは、兄の生活を支援することを決め、死ぬまで支え続けました。
弟の支援もあり、美術学校に入ることが出来たゴッホは、ゴーギャンなど画家仲間に出会い制作活動を続けます。
またゴッホは芸術家組合を作り、貧困の画家が暮らせるアトリエを作る夢が芽生え、南フランスのアルルに「黄色い家」と呼ばれた格安の家を借ります。
有名なひまわりの絵もこの『黄色い家』で制作されました。
しかし、ゴッホの夢に賛同してくれる画家はおらず、唯一、ゴーギャンだけがその家に住み、ゴッホと共同生活を始めます。
しかし2人の強烈な個性を持つ2人の相性は最悪で、ゴッホはストレスから精神病の発作を発症してしまい、クリスマスの夜に自らの耳を切り落としてしまいます。
その事件をきっかけに、ゴッホは精神病院に強制的に入れられて、町の人からは狂人扱いされました。
ゴッホは精神病を完治させるため、フランスのプロヴァンスにあるサン・レミ精神病院で療養しながら制作を続けることにします。
この頃からゴッホの絵が世間から評価されるようになってきます。パリの展覧会にアルルで描いた作品群を出品した際には、巨匠モネから『輝ける星』と高く評価されるまでになっていました。
サン・レミの病院から退院後、オーヴェールというフランスの田舎町に移住して、芸術に理解がある医者のガシェ博士の元で治療と絵画制作する生活をします。
ゴッホの油絵もやっと1枚だけですが売れ、世間からも認められるようになった矢先、弟のテオが仕事と家庭内でのトラブルによってゴッホに生活費を援助することが困難になってしまいます。
思うように絵が売れず、弟一家に経済的な負担を強いて苦労をさせていることで、精神的に追い詰められていきます。
将来に絶望していたある日、カウボーイごっこをして本物の拳銃でふざけて遊んでいた少年2人から誤って撃たれてしまいます。
ゴッホは未来ある少年たちをかばって、周囲には「自分で撃った」と伝え、2日後に滞在先のホテルで亡くなります。
そして後を追うように弟も半年後に精神病で亡くなってしまいました。
ゴッホは亡くなってからその天才的な画才を周囲に認められ、鮮やかな色彩とその常軌を逸した生き方が、のちに『炎の画家』そして『近代絵画の父』とも評され偉大な芸術家として名を馳せます。
現在までのゴッホの最高額の作品は、晩年ゴッホの治療と絵画制作を支えた医師、『ガシェ博士の肖像』画で、8250万ドル(約124億5750万円)もの値がついています。
有名な『ひまわり』は約53億円。
ゴッホ兄弟は悲劇の芸術家でしたが、ゴッホは弟に宛てた手紙の中で、
「画家にとって最も重要なことは、その作品によって次の世代、相次ぐ世代に語りかけることだ。したがって画家の生涯にとって、おそらく死は最大の困難ではない。」
Doi Yozo. Gogh ga kataru Gogh no shougai (Japanese Edition) (p.248). Maximilien Publishing.
と語っており、生きて称賛されることより、作品の芸術性が次世代に伝わることを心から願っていたことが分かります。
その点では、ゴッホは芸術家としての目的は果たされ、現代ではゴッホが築き上げた芸術が人々から愛され、ゴッホの芸術性が後世に大切に受け継がれていることが分かります。
次章からは、ゴッホ生涯において、詳細なエピソードを紹介していますので、興味があったら読んでみてください。
ゴッホの生い立ちから晩年までの詳細なエピソード
ここからは、ゴッホの誕生から晩年までの詳細なエピソードについてご紹介していきます。各チャプターには以下のリンクから飛ばして読めますので、気になる所から見てみてください。
- 幼少期、兄弟では一番絵が上手かった(0歳〜16歳)
- 画商の仕事に就くも、失恋によって挫折(16歳〜22歳)
- 心機一転、宗教家を目指すも評価されず挫折(23歳〜25歳)
- 牧師から画家の才能を発見される(25歳〜26歳)
- 画家を目指すも家族から猛反対。孤独な放浪生活(26歳)
- 本格的に画家修行。弟の支援で絵画制作に没頭(27歳)
- 絵の勉強で華やかな都へ。金銭的な問題で実家に戻る(27〜28歳)
- 父を大激怒させた「ある事件」(28歳)
- 画家修業に苦戦。モデルと同棲も生活に困窮(29〜30歳)
- 貧困により同棲生活が破綻。1人孤独に旅立つ(30歳)
- 実家で母を看護しながら、画家の実力をつける(30〜32歳)
- 街から追い出され、アントワープで巨匠の絵に出会う(32歳〜33歳)
- 芸術の都パリで美術学校へ。弟は兄との関係に疲れ果てる(33歳〜35歳)
- 画家仲間との出会い。しかし絵は一向に売れない日々(33歳〜35歳)
- 弟の結婚、そして周囲からの孤立。パリを去りアルルへ。(35歳)
- 数々の名画が”黄色い家”で制作される(35〜36歳)
- ゴーギャンとの共同生活からゴッホの悲劇が始まる(36歳)
- 仲間を失った絶望で自ら耳を切り落とし、精神的な病を発症(36歳)
- 精神的な病と闘いの日々。画家としての評価が上がる(36歳〜37歳)
- 2ヶ月のオーヴェール滞在で、最期をむかえる(37歳)
幼少期、兄弟では一番絵が上手かった(0歳〜16歳)
ゴッホの父は、牧師の傍ら、副業で農業をして生計を立て、あまり経済的には余裕のない家庭でした。
幼少期はわがままで、怒りっぽい性格だったそうです。
親に無断で遠出して1日中、虫や植物、野鳥などを観察して過ごすような気難しい少年でした。
しかし兄弟の中でも一番絵が上手く、父の誕生日のプレゼントに描いたというデッサンは、11歳が描いたと思えないような素晴らしい仕上がりでした。
画商の仕事に就くも、失恋によって挫折(16歳〜22歳)
経済的な理由もあり、中学校を残り1年で退学したゴッホは、16歳の時に叔父さんの紹介で 、絵画を販売する画商の仕事に就きます。
始めは順調に営業成績を上げていましたが、転勤先のイギリスのロンドン支店で下宿先の宿の娘さんに恋をし告白するも、婚約者がいたため、失恋という結果に。
そのショックから仕事へのやる気を失ってしまい、勤務態度も悪化。転勤でパリ支店に配属されますが、クリスマスの繁忙期に無断欠勤をして解雇されてしまいます。
また画商の仕事は、質の悪い絵でも、無理に営業をかけて売上を上げるビジネスのやり方に違和感を感じていたゴッホは、父の跡を継いで、宗教者になることを決意します。
心機一転、宗教家を目指すも評価されず挫折(23歳〜25歳)
それから、心機一転、イギリスで貧しい家庭の子ども達が通う学校で、教師の仕事をしたり、オランダで書店の仕事に就きます。
そこで様々な国の聖書を翻訳したり、宗教の本に関わることで、貧困層を救うために宗教者になりたいという思いが更に強くなっていきました。
しかし、正式な宗教指導者になるための資格を取得するためには、7〜8年は大学で勉強する必要があり、受験科目もとても多く、習得するのが困難で、大学で学ぶことを断念。
それでも諦めきれず、正式な牧師ではなく、聖書を人々に伝えることが出来る【伝道師】の道で、聖書を説く仕事に従事することを決意します。
そこでベルギーのボリナージュという炭坑の町で、貧しい労働者たちに聖書を説いてまわる伝道師として仕事を始めることにしました。
しかし給料が支払われていた伝道師委員会からは、ゴッホの伝道師としての仕事ぶりを評価してもらえず、6ヶ月の試用期間で給料を打ち切られ、仕事をクビにされてしまいます。
牧師から画家の才能を発見される(25歳〜26歳)
伝道師の道も絶たれたゴッホは、他になすすべがなくなり、途方に暮れてしまいました。
そこでイギリスでお世話になった牧師の友人の牧師に助言をもらいに行こうと思いたち、浮浪者のようにボロボロになりながら、裸足でブリュッセルまで70kmもの道のりを歩きました。
そこで炭坑で描いたスケッチを見てもらったところ、絵画好きだった牧師から、その絵の才能を見出されます。
そこでゴッホは初めて「画家」の道を選択肢として考えるようになります。
その後、牧師から新しく伝道師の仕事を紹介してもらうものの、すでにゴッホの心は「画家」の道一筋となって、仕事を2ヶ月で辞めてしまいます。
そして絵を勉強して描きながら、父からの送金で暮らすようになりました。
画家を目指すも家族から猛反対。孤独な放浪生活(26歳)
独学で絵の勉強を始めますが、父からの仕送りに頼る生活に、家族からは猛批判を食らってしまいます。
唯一の理解者であった弟のテオからも、「年金生活者のようだ」と批判されて、ゴッホはひどくショックを受けてしまいます。
しかし、今まで仕事を得るために努力しても、挫折続きで報われない結果に嫌気がさしていたゴッホは、自分には「画家」になるしか道はないと強い意志が固まってました。
そして家族の元を離れ、北フランスに放浪しながら独学で絵を描く生活が始まります。
真冬でわずかな小銭しかなく、デッサンと引き換えに農家からパンを貰って野宿しながら、ホームレスのように暮らす日々は孤独で惨めで、ゴッホにとって人生で最も辛い時期でした。
放浪生活も極限に達し、エッテンの実家に帰ると、見かねた父親が、ゴッホがおかしくなったと精神病院に入れようとし、親子関係に亀裂が入ってしまいます。
本格的に画家修行。弟の支援で絵画制作に没頭(27歳)
唯一救いだったのは実家に帰った際、弟のテオからゴッホに生活費を支援があったことを知り、お礼の手紙を送ったことで、弟との信頼関係を取り戻します。
そしてゴッホが画家になる決意を固め、その熱意を信じた弟のテオは、画家として自立できるまで、密かに兄の生活費を援助することを決めます。
ゴッホは画商の仕事をしていた時から、多くの名画や文学などの芸術に触れることで芸術的感性が培われ、絵画に対する情熱が本物であることが分かったからです。
それからゴッホは独学を始め、「種をまく人」、「落ち穂拾い」で有名なジャンフランソワ・ミレーの模写をしたり、人々や風景をスケッチして、独一心不乱に絵を描く日々が始まりました。
絵の勉強で華やかな都へ。金銭的な問題で実家に戻る(27〜28歳)
始めはベルギーの炭坑で下宿しながら画家修業をしていましたが、絵を描くには狭すぎる部屋で、とても不便を感じていました。
そこでベルギーの田舎町のボリナージュの炭坑から、華やかな首都ブリュッセルに引っ越し、画商だった時の支店長に掛け合い、助言をしてもらえる画家を紹介してもらいます。
『レンガ工場の労働者たち』
1885年頃,油彩
ウィキメディア・コモンズ
そこで画家のアトリエを借り、絵画の制作を始めました。
そこで生活に最低限必要な収益が得られる売れっ子画家になれるように、必死になって絵を学んでいました。
ブリュッセルに来てから半年、ずっと父から支援されていた生活費の大半が、実は弟のテオから送られていたことが分かり、申し訳ない気持ちからエッテンの実家で絵の修業をすることにします。
父を大激怒させた「ある事件」(28歳)
水彩画,1881年9月,エッテン
ゴッホはエッテンの実家に戻り、農民の暮らしや田園風景の素描や水彩画の制作に励みました。
とにかく早く、売れる絵が描けるようになりたかったゴッホは、必死に描き続けたおかげで徐々に画力も上がりますが、周囲からの信用を落とす事件を起こしてしまいます。
それは、7歳上の従姉妹の未亡人のお姉さんに恋をしてしまったことです。
夫を亡くして心に傷を抱えていて、子供までいる女性に求婚してしまったことが、非常識極まりないとゴッホの父を激怒させてしまい、家を追い出されてしまいます。
そこで以前よりハーグに行きたいと思っていたため、思い切って実家を出て、オランダのハーグに移り住みます。
画家修業に苦戦。モデルと同棲も生活に困窮(29〜30歳)
穏やかな秋の終わりごろ、ゴッホはオランダ中部のハーグという都市に、安いアパートを借りて住み始めます。
『自画像』アントン・モーヴ
65cm×43cm,油彩
Public domain, via Wikimedia Commons
そこで親戚のハーグ派の画家、アントン・モーヴ紹介してもらい、彼のアトリエで絵を教えてもらう生活が始まりました。
しかし人物画を描きたかったゴッホに、石膏像のスケッチから始めるよう教えたモーヴの指導方法と対立し、1ヶ月ほどで師弟関係は破綻してしまいます。
頼りにしていた画家に指導を打ち切られ、精神的ダメージを受けたゴッホは、さまよっていた夜の街で、幼い子どもを連れて、妊娠もしていた娼婦の女性、シーンに出会います。
シーンもまた貧困で苦しい生活状況にあり、ゴッホの絵のモデルになることで、何とか日々暮らしていくことが出来ました。
『悲しみ』フィンセント・ファン・ゴッホ
1882年4月10日頃 ,44.5 cm × 27cm ,黒いチョーク
Public domain, via Wikimedia Commons
とはいえ、ゴッホも弟のテオからの仕送りで暮らす日々で、モデル代を払うのもきつい状況。
そして画材を買うために街の貧困層の庶民のためのスープやパンを無料で配給する施設で毎日食事をとって、貧しさと戦う毎日でした。
この時のゴッホの描く絵の主題は、
「日常生活のどこにでも転がっている、しかし生きてゆくうえで避けて通ることのできない深い悲しみを描きたいと思っている」
『ゴッホが語るゴッホの生涯』-土居洋三著 より
と語っていたように、「人生における悲しみ」がテーマになっていました。
貧困層のための食料配給所や、身寄りのない老人が通う集会所や貧しい人が通う教会など、貧困の中で苦痛と屈辱と向き合わなければいけない現実を描いていくことに集中します。
『貧者と金』フィンセント・ファン・ゴッホ
1882年9月-10月,水彩,38 × 57 cm
ファン・ゴッホ美術館,ファン・ゴッホギャラリー
貧困により同棲生活が破綻。1人孤独に旅立つ(30歳)
『赤ん坊に乳をやるシーン』フィンセント・ファン・ゴッホ
1882年9月,ハーグ,個人蔵
ヴァン・ゴッホギャラリー
モデルとしてシーンと接するうちに愛情が芽生え、同棲するようになりました。
しかし、弟からの仕送りだけで、画材の購入と日々の暮らしだけで精一杯なのに、さらにシーンとその子どもたちの生活を養う生活は到底無理でした。
シーンも極貧生活に次第に不満がつのり、やがてゴッホに激しい怒りをぶつけるようになり、その仕打ちに耐えきれず、二人の関係は破綻を迎えてしまいます。
そして1年ほどの同棲生活に終止符を打ち、ゴッホは孤独になって、オランダ北部のドレンテという田園地帯に移住しました。
実家で母を看護しながら、画家の実力をつける(30〜32歳)
『ニーウ・アムステルダムの跳ね橋』フィンセント・ファン・ゴッホ
1883年11月,水彩,フローニンゲン美術館蔵
ヴァン・ゴッホギャラリー
画家仲間からドレンテの景色の評判を聞いていたゴッホは、3ヶ月ほどホテルの屋根裏部屋を借り、農民の暮らしや田園風景を描きました。
しかし、弟のテオも、仕事の方向性で上司とぶつかり収入が減ってしまい、仕送りが遅れるようになります。
そしてゴッホは生活費はもちろん画材の購入も困難になり、この地で絵を描き続けることは絶望的になります。
そして苦渋の決断で両親に頭を下げ、両親が住んでいる地、ニューネンに向かいました。
ニューネンの実家では、小さい部屋をアトリエとして使えることになります。
また母が事故で骨折した際、ゴッホは献身的に介抱したことにより、だんだん家族仲は良好になっていきました。
家族と打ち解けることができ、アトリエで絵画制作にじっくり取り組む時間が取れたゴッホは、この時期に、絵画の腕前も上がり、画家としての実力は確実についていました。
油彩、キャンバス、82.0 x 114.0 cm,ファン・ゴッホ美術館
Vincent van Gogh, Public domain, via Wikimedia Commons
初期の油絵作品の有名な「馬鈴薯(ジャガイモ)を食べる人たち」は、このアトリエで制作されました。
またこの頃にゴッホに絵を教えてほしいという弟子も現れ、ゴッホは丁寧にやさしく弟子に絵画を教えてあげたのでした。
街から追い出され、アントワープで巨匠の絵に出会う(32歳〜33歳)
ニューネンの実家での絵の制作活動は順調だったものの、次第に暗雲が立ち込めます。
家の隣に住んでいた女性と恋に落ちるも双方の家族から大反対にあい、女性は自殺未遂をします。また街の住民からも悪い噂を流されてしまい、ゴッホの絵のモデルになってくれる人はいなくなってしまいました。
また同じ時期、父が自宅に帰宅した際、突然倒れ、亡くなってしまいます。
これ以上ニューネンで絵を描き続けることは無理と判断したゴッホは、ベルギーのアントワープで美術学校に通うことを決め、本格的に絵の勉強を始めることにします。
『おいらん』(渓斎英泉を模して)フィンセント・ファン・ゴッホ
1887年9月-10月,105x 60.5 cm,油彩,ファン・ゴッホ美術館
このアントワープで日本の浮世絵に出会い、その鮮やかな色彩や構図に感銘を受け、作品を買って部屋に飾っており、後のゴッホの画風や色彩に多大な影響を与えました。
また、フランダースの犬で有名な、ルーベンスの宗教画があるアントワープ大聖堂でゴッホは、ルーベンスの作品を鑑賞し、この地で数々の芸術作品から影響を受けました。
しかし相変わらず絵は全く売れず、生活はまたもや困窮を極めます。
栄養失調やタバコの吸いすぎで、歯は抜け落ち、体はボロボロになっていき、耐えかねてパリに住んでいる弟の家に移住することにします。
芸術の都パリで美術学校へ。弟は兄との関係に疲れ果てる(33歳〜35歳)
印象派が大きな盛り上がりを見せていた芸術の都パリで、ゴッホは弟と一緒に暮らしながら、美術学校に通って画家仲間に出会います。
ちょうど同時期に、印象派で有名なモネ、ピサロ、シスレー、ルノワールなど、名だたる画家が展覧会を開催しており、その印象派展の会場になった場所はテオが務める画廊だったのです。
ゴッホの絵は印象派の影響もあり、次第に明るい色彩を持ち、このパリでの制作でゴッホらしい色味を習得していきました。
1887年夏,キャンバスに油絵,34.9 x 26.7cm
デトロイト美術館, Public domain, via Wikimedia Commons
しかしテオはそのような責任ある仕事を任され、疲れ果てているのに、家に帰るとゴッホが芸術についての小難しいうんちくをひたすら聞かされる羽目になり、精神的にまいってしまいます。
そんな状況がしんどくなり、ゴッホに家を出てもらおうかと思いますが、テオは妹へ宛てた手紙の中で、
「彼は本当の芸術家だ。真の芸術家を支援しないというのは、画商として、一人の人間としての僕の義務を放棄することになる。だから僕は、兄さんを支援し続けることにする。いずれ兄さんは、後世に残る素晴らしい作品を制作するようになるだろう。そのような芸術家を支援しないのは、画商として、人間として許されることではない」
Doi Yozo. Gogh ga kataru Gogh no shougai (Japanese Edition) (p.219). Maximilien Publishing.
と語り、兄が真の芸術家としての資質があることを目の当たりにしたことによって、兄の画家の未来を信じて生活を続けてたのでした。
画家仲間との出会い。しかし絵は一向に売れない日々(33歳〜35歳)
ゴッホは、美術学校で画家見習いの交友が増え、ゴーギャンやロートレックなどの若手の画家と酒場で芸術について語り合い、充実した日々を過ごしました。
また画材屋を営んていたタンギーじいさんは貧しい画家の支援をしており、真面目で芸術に真摯に向き合うゴッホも、タンギーじいさんから気に入られてた一人でした。
1887年,パリ,キャンバスに油彩,92×75 cm
ロダン美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
そして、ゴッホの絵を店先に出す代わり、画材を無償や格安で提供してくれたのでした。
弟の結婚、そして周囲からの孤立。パリを去りアルルへ。(35歳)
パリの生活では順調に画家として歩み始めたかと思われましたが、次第に芸術に対する価値観で画家仲間と意見が合わなくなり、孤立していきます。
また弟のテオが結婚の話が出てきたため、ゴッホは弟のためにも身を引いて、パリを出ることを決心します。
そして強烈な太陽が降り注ぐ明るい光あふれる田舎町で、「新しい光を見つけたい」と南フランスになるアルルに向かいます。
『収穫』フィンセント・ファン・ゴッホ
1888年6月,アルル,キャンバスに油彩,73.4 × 91.8 cm
ゴッホ美術館, Public domain, via Wikimedia Commons
この明るい光にあふれた街アルルで、ゴッホはさらに色彩豊かな独自の画風を確立することになります。
この街でゴッホは『黄色い家』と呼ばれる格安のアトリエの家を借ります。
『アルルの寝室』フィンセント・ファン・ゴッホ
1888年10月,アルル,キャンバスに油彩,72.4 × 91.3 cm
ゴッホ美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
そこに貧困で制作がままならない画家たちを集め、芸術家の組合を作って共同生活出来る施設を作り、芸術界に変革をもたらす組織を作りたいと考えていました。
しかしこの素晴らしいと思えた構想も、声をかけた画家仲間からは理解してもらえず、結局、住む場所と生活に困窮していたゴーギャンのみがアルルの家に来ることになりました。
数々の名画が”黄色い家”で制作される(35〜36歳)
ゴーギャンがアルルに訪れることになるまでの11ヶ月間、ゴッホは一人で絵画の制作に集中していましたが、この時に数々の名画を生み出します。
誰もが知っている名作の『夜のカフェテラス』は、ゴッホが毎日食事にいくレストランを描いたものでした。
1888年9月,アルル,キャンバスに油彩,81.0 x 65.5 cm
クレラー・ミュラー美術館,via Wikimedia Commons
また『ローヌ川の星月夜』も同じ時期に描かれたものです。
1888年9月,アルル,キャンバスに油彩,72.5 x 92.0 cm
オルセー美術館 Public domain, via Wikimedia Commons
ゴッホはこの時星空を沢山描いていた理由は、たった一人で見知らぬ土地で心細く制作していたことで、夜空に浮かぶ星座に希望を見出し、心のより所にしていたからでした。
また、弟のテオも仕事が軌道に乗り、兄への仕送りも沢山送れるようになり、画材を十分に仕入れることが出来たため、いよいよゴッホの本領を思う存分発揮する作品を生み出すことが出来ました。
1888年8月,アルル,キャンバスに油彩、91.0 x 72.0 cm,
ノイエ・ピナコテーク美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
ゴーギャンとの共同生活からゴッホの悲劇が始まる(36歳)
ゴッホの絵が世間から認められるレベルまで達したと判断した弟のテオは、大きな展覧会に兄の作品を出展することを提案し、あとは評価を得るのみという段階まで来ていました。
しかし、ゴーギャンがアルルに訪れて共同生活が始まってから2ヶ月後、ゴッホの画家としての人生に悲劇をもたらすことになります。
『自画像(レ・ミゼラブル)』ポール・ゴーギャン
1888年,油彩,45 x 55cm
ゴッホ美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
ゴーギャンとは元から気が合う仲ではありませんでしたが、ゴーギャンの貧しい暮らしを知っていたので、生活を保証する代わりにアルルに来ることを承諾してもらったのでした。
そのため、ゴーギャンはゴッホと共同生活には気が進みませんでしたが、自分の画家としての地位を確立することを優先し、自分の将来のためを考え、打算的に共同生活を始めました。
『アルルの夜のカフェで』ポール・ゴーギャン
1888年11月,油彩,73 x 92cm
プーシキン美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
そのため、ゴッホとゴーギャンは方向性も芸術論も噛み合わず、仕事仲間としては最悪に相性が悪かった2人は、些細なことで意見が食い違って口論するようになり、精神的にもお互い疲弊しきってしまうのでした。
仲間を失った絶望で自ら耳を切り落とし、精神的な病を発症(36歳)
そしてクリスマスの前日に、2人の間にトラブルが起き、ゴッホがゴーギャンにコップを投げつけつけたことをきっかけにゴーギャンはゴッホと暮らすことに危険を感じ、次の日家に戻らず、ホテルに泊まりました。
そしてゴーギャンと画家として共に栄光の未来を掴むための協力者を失ったと絶望したゴッホは、クリスマス・イヴにカミソリで自分の耳を切り落とし、娼婦の一人に「僕のことを忘れないで」と、切り落とした耳を渡します。
このように常軌を逸した行動に、ゴーギャンはゴッホを病院に入れるように警官にお願いし、弟に至急アルルに来るように電報を打ち、パリに帰ってしまいます。
1889年1月,キャンバスに油彩、51.0 x 45.0 cm,アルル
チューリッヒ美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
なぜゴッホが突然耳を切り落とす行動に出たのか、詳細な理由は未だに明らかにされていません。
しかし、事件当時のゴッホは、極度の精神的ストレスにさらされていたことは間違いないようです。
弟の結婚により自身への生活の援助が途絶えてしまう不安や、そのために芸術家組合を作ろうとしたがゴーギャンの離脱によって計画が崩れてしまうことによって、精神的な病気の発作が起きたという説が有力のようです。
その後も度々精神的な発作に襲われ危険人物扱いされたゴッホは、住民から市長に請願書が提出されて、精神病院に強制収監されてしまいます。
1889 年 4月,アルル,キャンバスに油彩,73×92cm
スイス・ヴィンタートゥール美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
テオが結婚する予定の月、ゴッホはアルルの精神病院から離れ、ゴッホに理解ある牧師から紹介されたサン・レミの精神病院に移ります。
精神的な病と闘いの日々。画家としての評価が上がる(36歳〜37歳)
このサン・レミの精神病院は、修道院を改装した場所で、ゴッホはここで約一年間、病気の治療に専念しながら絵画を制作します。
1889年5月,サン・レミ,71. x 93.0 cm,キャンバスに油彩
J・ポール・ゲティ美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
この精神病院で療養することによって不安や恐れの感情がなくなり、落ち着いた生活を取り戻すことが出来ました。
この病院に滞在している間にも、『星月夜』、『糸杉』、『アイリス』などの名画を制作します。
1889年6月,キャンバスに油彩,93.3 x 74.0 cm,サン・レミ
メトロポリタン美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
1889年6月,キャンバスに油彩,73.0 x 92.0 cm,サン・レミ
ニューヨーク近代美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
またサン・レミの滞在中に弟のテオの子供が生まれますが、息子にゴッホのフルネームである、フィンセント・ウィレムと名付けられ、ゴッホは喜びの手紙と出産祝いの絵を弟夫婦へ贈りました。
この頃からゴッホの絵が次第に評価され、生み出す作品も完全に調和の取れた色彩になり、画風は完成の域に到達してました。
ゴッホは送金してくれている弟に対して、描いた絵を頻繁に送っていましたが、病院で描いた絵があまりに見事だったため、周囲からも高評価を得た弟は、パリの展覧会に出展することを決めます。
その展覧会で、モネやピサロ、美術評論家やゴーギャンでさえも、ゴッホの「ひまわり」などの作品を鑑賞した際に大絶賛し、初めて400フランという高額な値段で『赤い葡萄畑』という絵が売れます。
1888年11月,75.0 x 93.0 cm,キャンバスに油彩,アルル
プーシキン美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
体調もだいぶ回復してきたゴッホは、ピサロの知り合いで芸術に理解がある医師がいる、オーヴェールの田舎町に移り住むことを決めます。
2ヶ月のオーヴェール滞在で、最期をむかえる(37歳)
サン・レミの病院を出て、のどかな田舎の風景が広がるオーヴェールという村に移住します。
そこで亡くなるまでの2ヶ月ほど、格安ホテルに滞在しながら、芸術家でもあった医師の元で、治療を施してもらい、絵画の制作活動に励みます。
切なく苦悩を抱えた表情が特徴的。
『医師ガシェの肖像』フィンセント・ファン・ゴッホ
1890年6月,68.0 x 57.0 cm,キャンバスに油彩,オーヴェール
オルセー美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
一方、弟は妻子の病気と自身の仕事が落ち込み、経済的に不安定になり、家庭でのトラブルや経済事情に苦悩します。
そのことを聞いたゴッホは、テオ夫妻に自分のことで負担を強いてることに、精神的に追い詰められてしまいます。
その時期に描かれたのが、晩年の不穏な麦畑に嵐が来そうな空を描いた「カラスのいる麦畑」です。
1890年7月,50.5 x 103.0 cm, キャンバスに油彩,オーヴェール
ファン・ゴッホ美術館,Public domain, via Wikimedia Commons
そして亡くなる当日、ゴッホは朝からいつもどおりスケッチに出かけると言って家を出てから、夜になっても帰って来ず、夕飯の時間をだいぶ過ぎて、お腹を押さえ苦しそうにホテルに戻ってきます。
ゴッホが銃に撃たれたことを知ったホテルの主人は、急いでガシェ医師を呼び、応急処置をしてもらいますが、それから2日後、急いで駆けつけた弟に看取られながら亡くなります。
ゴッホは周囲には「自分で撃った」と伝えていたそうです。
しかし事件の真相は、仲が良かった村の少年2人が、ふざけて拳銃を振り回していた際、誤って発泡した弾がゴッホの胸にあたってしまったという説が有力なようです。
ゴッホは少年の未来を思って事件の真相を話さず、ゴッホは自ら拳銃で撃ったと周囲に伝えたようです。
また弟のテオも兄の死にひどくショックを受け、半年後に精神的な病を発症し、33歳という若さで亡くなってしまいます。
ゴッホの死の真相については、2017年に公開された6万5千枚の油絵でアニメーションされた『ゴッホ〜最期の手紙〜』という映画の中で描かれています。
ゴッホのタッチで描かれた動く油絵のアニメーションは圧巻なので、興味があったら見てみてください。
ゴッホの生涯について解説された本
ゴッホの生涯についてやさしく解説されたマンガや絵本を紹介します。
ゴッホ (やさしく読める ビジュアル伝記)単行本 – 2019/4/16 山本 まさみ (著), オズノ ユミ (著), 圀府寺 司 (監修)
ぼくはフィンセント・ファン・ゴッホ 絵本でよむ画家のおはなし (絵本で読む画家のおはなし) 単行本 – 2017/10/18 林 綾野 (著), たんふるたん (著)
もっと知りたいゴッホ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 単行本 – 2007/12/25
まとめ:ゴッホの生涯は壮絶な人生だった
いかがでしたでしょうか。
ゴッホの生涯は、貧困と孤独との闘いでもあり壮絶な人生を歩んだ画家でした。
しかし様々な職を転々としながらも、自身の画家としての天性を見つけ、人生をかけて最期まで絵を描き続けた炎の画家ゴッホ。
彼は真面目で優しい性格でしたが、天才がゆえに人々から理解されない部分も多く、人間関係にも苦労しましたが、最期まで人を愛し、人のために生きた愛情深い画家だったのです。
ゴッホの生涯を知ってから作品を見ると、また違った作品の楽しみ方が出来ます。
美術展でゴッホの作品を目にしたら、ぜひ彼の人生に思いを馳せて、彼の築き上げた芸術に触れてみてはいかがでしょうか。