『近代絵画の父』と呼ばれたポール・セザンヌは、後期印象派の巨匠で、印象派からキュビズムにかけて、近代絵画に革命を起こした画家です。
2011年には、「カード遊びをする人々」の作品が、カタール王室に2億5千万ドル(約330億円)で落札されました。
2023年現在でも、世界の絵画の最高額ランキングでは第3位となっており、今なお世界中から評価されている巨匠です。
セザンヌの作品の特徴は、後期印象派の明るく独特な色彩と、物体を簡単な形に分解して画面上に美しく再構成するといった、キュビズムの元祖となった構図や色彩の美しさです。
セザンヌは目で見たものを正確に描くのではなく、描く対象を目の前にした時の感動を絵に表現しようと試みていたのです。
今回は画家セザンヌの代表作をご紹介しながら、彼の絵画史に変革をもたらした新しいものの見方やセザンヌが描きたかった世界観についてご紹介していきます。
セザンヌは遠近法が苦手だった?初期の特徴や代表作(1860年代)
セザンヌが『近代絵画の父』と呼ばれる理由は、印象派後のキュビズムや、フォービズムの元となる絵画表現を開発し、ピカソやブラック、マティス、クレーなど、多くの画家に影響を与えたからです。
伝統的な絵画技法に囚われない自由な視点を取り入れた画面構成と、見たままの景色を写生するのではなく、自然を目の前にしたときの感覚を表現した、全く新しい表現手法を生み出したのでした。
セザンヌの絵画の特徴は、巨匠の模写や空想上の世界を描いた「ロマン主義」から始まり、印象派の画家たちとの出会いで「印象主義」が始まります。
そして、40代は独自の芸術観を確立した「構成主義」、50代からは「総合主義」の4つの時代に分けられます。
初期 | 1860年〜1870年(20代) | ロマン主義 |
中期 | 1872年〜1878年(30代) | 印象主義 |
後期 | 1879年〜1887年(40代) | 構成主義 |
晩年 | 1888年〜1906年(50代) | 総合主義 |
具体的にどんな代表作品があるのか詳しくご紹介していきます。
セザンヌが画家になるまで
セザンヌは1839年南フランスの銀行業を営む実業家の父の元に生まれ、中学は進学校へ通い、後に有名な小説家となったエミール・ゾラと出会い、親友になります。
セザンヌはゾラに絵の才能を褒められることがきっかけで、将来画家を志すようになります。しかし銀行家で現実主義の厳格な父からは、猛反対を受けます。
大学に進学する頃には、小説家として既に成功を掴み始めていたゾラに触発され、21歳にときにパリの国立美術学校で絵画を学び画家になること決めます。
セザンヌは自分の実力を示して美術学校へ行くことを父に承諾してもらうため、別荘の家に飾る絵を描きました。
その際に描いたのが四季を寓話として表現した古典主義的な「春夏秋冬」の4連作です。
この大作によって、セザンヌの熱意に根負けした父は、パリの美術学校で学ぶことを承諾し、晴れて画家としての第一歩を進む事ができるのでした。
パリでの挫折と構想画・ロマン主義の時代(1860年〜1871年)
1861年22歳の時、パリのアカデミー・シュイスという私立のデザインの美術学校に通い、本格的に画家を目指します。
初期のセザンヌは、悲しみや死、人間の性といった比較的暗い主題を描いており、もともと気難しい性格で、周囲からは変人扱いされてました。
美術学校に通っていた当時は、田舎出身のセザンヌの絵を同級生からからかわれ、4ヶ月ほどで実家に帰ってしまい、人生で大きな挫折を経験します。
その時の挫折や悲しみの心情が、絵に表現されていたのかもしれません。
しかし親友のゾラから何度も手紙をもらい、画家になる道を諦めるなと励まされることで、再度パリの美術学校に通うことを決心するのでした。
遠近法が描けない欠点が最大の長所になる
セザンヌは1860年から1870年代は実際のモチーフやモデルではなく、空想で描く『構想画』をメインに描いていました。
セザンヌはルーヴル美術館に頻繁に通い、ルネサンスの巨匠のヴェロネーゼ、クールベやドラクロワを崇拝し、模写を通して積極的に技法の研究を行っています。
しかしセザンヌの絵は、
- 遠近法が描けていない
- モチーフの質感が描けていない
という最大の欠点がありました。
確かに、人の肌のやわらかさと硬いものの物体の質感の違いや、距離感があいまいで、平面的な印象を受けます。
当時の美術界のアカデミックな絵画の基本は写実的で、リアリティのある絵が最高の評価を得ていたので、それらの基礎が出来ていないセザンヌの作品は、「絵が下手」だと周囲から批判されていました。
しかし、この欠点や特徴があったからこそ、後に次の時代の絵画芸術に革命をおこし、発展させることができたのでした。
セザンヌの追い求める自身の絵画芸術にとって、それらの伝統的な絵画技法は必要なかったのかもしれません。
印象主義の影響で明るい色彩になっていく(1870年代)
セザンヌが美術学校で周囲から孤立していたの知っていたピサロは、「一緒に屋外で制作しないか」とセザンヌのことを気遣い、屋外での制作を提案しました。
そしてピサロから、想像ではなく、実際に目ることのできるリアルな景色を描くことを教わります。
また、色彩も黒、黄茶、赤茶色といった暗い色ではなく、レッド、グリーン、ブルーの三原色で描くよう教わり、明るい色調に変化しました。
1874年にはピサロをはじめ、モネやルノワール、シスレー、マネらによって、第一回印象派展が開催されることになり、セザンヌも出展することになります。
しかし、セザンヌは印象派のメンバーの中でも際立って絵が下手で、周囲から酷評を受けてしまいます。
さらに印象派のメンバーとも折が合わなくなってしまったセザンヌは、独自の芸術を開拓するため、第三回の印象派展を最後にグループを脱退し、故郷に戻り制作に集中しました。
リアルな景色の写生ではなく、感覚に忠実に描きだそうと試みた風景画
印象派は見たままの景色、主に光を絵画に再現しようとしたのに対し、セザンヌは、
「風景を目の前にしたときの感覚」
を忠実に絵に描き出そうとしていました。
なので建物のパースや遠近法は正確ではなく、歪みが生じることがありました。
この頃から見た景色から絵にモチーフを再構成していく構成主義の兆候が垣間見えてきます。
水浴図
また、セザンヌは生涯にわたって水浴図をテーマに作品を描き続けました。
その理由は、セザンヌが青春時代にフランスの川で泳いでいた美しい思い出から着想を得て、描かれたそうです。
描かれている人物には目立った個性はなく、人と自然が完全に調和している姿を描き出したかったセザンヌのこの表現手法は、後に【野獣派】と呼ばれたマティスたちに大きく影響を与えていきました。
人物画
セザンヌは自画像になると特に暗い色調で描かれることが多く、見ている人を威圧しているような雰囲気を感じます。
特に女性には対面恐怖症があり、人と関わることが苦手だったのかもしれません。
ヴィクトール・ショケの肖像は、1877年に印象派展に出品された中の一枚で、エミール・ゾラからは、
セザンヌこそは、グループの中で最も偉大な色彩研究家である
エミール・ゾラ,セザンヌ画集 (世界の名画シリーズ)セザンヌ, 楽しく読む名作出版会 p.121 より
と称された作品でした。
またモデルになったショケは、セザンヌの最大の理解者でもありました。
セザンヌの絵画はピカソにも大きな影響をもたらしましたが、ピカソは度々パリの画商に通っては、セザンヌの作品を鑑賞していたそうです。
1909年に制作されたピカソの『座っている女性』は、このセザンヌの『赤い肘かけ椅子のセザンヌ夫人』に影響を受けて描かれたとも言われています。
静物画
この時期からセザンヌは静物画を移り変わる光ではなく、モチーフの持つ固有色で描くようになります。
セザンヌが生涯固執していたモチーフの一つであるりんごも、この頃から頻繁に描かれるようになりました。
構成主義の時代(1879〜1887年)
自然に基づいて絵画を描くことは、対称を写生することではない。自分の感動を現実化することである。
ポール・セザンヌ-参照サイト:新潟美術学園より
と語っていたセザンヌは、印象派から離れ、1877年から18年間、故郷のエクス・アン・プロヴァンスで自身の絵画制作に集中しました。
セザンヌは自然を好み、とりわけ故郷の伝統的な建物や地中海沿岸の明るい日差しや、美しい自然を愛していました。
そして自然の本質を描くには、形をできる限り円錐形や球形や円筒形といったようにシンプルにし、固有色と形を構成していくことが重要だとして、形態をはっきりと画面に構成する『構成主義』が完成します。
この構成主義が後のキュビズムの原点になっていくのでした。
セザンヌが愛した故郷の景色を描いた風景画
セザンヌは故郷のエクス・アン・プロヴァンス郊外で、父が購入した広大な屋敷のジャ・ド・ブッファンをアトリエにし、拠点をおいて制作に励みました。
しかし絵はあまり売れず、父の仕送りに頼りながらの生活を続けていました。
セザンヌのモデルになった女性との間に子供ができ、それが父に知られると仕送りを減らされ、友人や妻の家族から支援してもらいながら経済的には極めて厳しい暮らしをしていました。
しかしセザンヌは貧困にも周囲からの批判にも屈せず、ひたすら絵画制作に没頭していきます。
サント・ヴィクトワール山
セザンヌの代表作といえば”サント・ヴィクトワール山”と言われているほど、作品の中でも名画が多いモチーフです。
セザンヌの故郷のすぐ近くのサント・ヴィクトワール山は、セザンヌの作品制作に多大なインスピレーションを与えました。1878年には親友ゾラへの手紙で
「素晴らしいモチーフだ」
セザンヌ画集 (世界の名画シリーズ)セザンヌ, 楽しく読む名作出版会 p.165 より
と語って以来、生涯に渡って描き続けていました。
セザンヌの妻『画家の婦人』
セザンヌは30歳の時にモデルだった、オルタンス夫人と恋人関係になります。
その後息子のポールが生まれますが、貧困のため中々結婚することができず、17年後の父が亡くなる同年にやっと結婚することができました。
また1886年に父から受け継いだ多額の遺産によって、経済的な不安がなくなり、制作にも集中することができたのです。
セザンヌはモデルに厳しく、少しも動くことが許されなかったそうですが、オルタンス婦人は何時間も耐え、作品の完成まで根気強くセザンヌに付き合ったのでした。
その強い凛とした眼差しは、セザンヌ作品の素晴らしさを心から理解し、なかなか周囲から認められなくても、耐えて作品作りに集中することの大切さを教えてくれているようです。
自画像、人物画
頬に赤みがさし、以前よりも表情がだいぶ柔和になってきた自画像。家族の支えもあったためか、心もオープンになってきたように見えます。
水浴図
同じモチーフを繰り返し描いた静物画
セザンヌは繰り返し同じモチーフを描きましたが、彼にとって「何を描くか」よりも「どのように構成するか」のほうが重要だったのです。
そして様々な視点から見た構図を一枚の絵に「構成」することで、物の存在感をより引き立たせることに成功し、これがのちのキュビズムの原点になっていきました。
セザンヌ50代、統合の時代へ。1888年〜次の時代の芸術を開拓する
自然を円筒、球、そして円錐で捉えなさい
『セザンヌ画集 (世界の名画シリーズ) 』セザンヌ, 楽しく読む名作出版会 p208より
と語っていたセザンヌは、50代以降の制作において、色彩、構成ともに完成の域に達していました。
1900年にパリの万国博覧会に出品し、作品が注目を集めて以来、頻繁に展覧会に出品するようになり、セザンヌの絵画は若手の画家を中心に注目の的になっていました。
そしてセザンヌが56歳の時には、初の個展を開催します。
世間からの評価はまだ追いついていませんでしたが、ピカソやゴーギャンもセザンヌの静物画を所有するほど、セザンヌの絵画に魅了され、支持する画家が多かったのです。
セザンヌ自身は1890年ごろから糖尿病のため、屋外制作が難しくなり、人物や静物画などが中心になることが多くなりました。
人物画
この頃のセザンヌの人物画に赤い色の服が多いのは、光と影の陰影ではなく、赤(モデル)と青(背景)の色の対比で絵に奥行きを出すための試みでした。
アルルカン(右)は、道化に扮したセザンヌの息子ポールがモデルで、左のピエロは息子ポールの友人のルイがモデルでした。
ルイはモデルとして動かないよう命じられて、ポーズの際にずっと同じ姿勢だったので、気を失ってしまったというエピソードがあります。
カード遊びをする人々
『カード遊びをする人々』は1890年から1895年にかけて計5枚描かれました。冒頭に紹介したカタール王国に売却された作品も含まれます。
日雇い農夫を描いた作品で、人間味や生活感よりも、色彩と形を重視されて、遠近法を無視し、複数の視点から人やモチーフが配置されています。
静物画
この頃描かれた影のほとんどない静物画は、後に野獣派と呼ばれたマティスたちに影響をもたらしました。
“リンゴ一個でパリを驚かせてやる!”と宣言し、リンゴのモチーフにかけた執念
セザンヌは、リンゴのモチーフに対する執念も人一倍強く持っていました。生涯制作した静物画200点のうち60点以上はりんごが描かれていたと言われています。
その理由の一つに、中学時代の親友で、小説家のエミール・ゾラが学校でいじめに合っていた際、セザンヌがゾラを助けたというエピソードがあります。
ゾラは当時お礼としてカゴいっぱいのリンゴをセザンヌに贈ったという出来事があり、それ以来リンゴはセザンヌにとって勲章的な存在だったのかもしれません。
そして、後に
『リンゴ一個でパリを驚かせてやる!』
ポール・セザンヌ ,セザンヌ画集 (世界の名画シリーズ)セザンヌ, 楽しく読む名作出版会 P52より
と1895年に画家のジョルジュ・ルオーとの会話の中で宣言して以来、リンゴの静物画を頻繁に描くようになりました。
それからセザンヌといえばリンゴというように、リンゴは彼の代名詞的なモチーフになったのでした。
風景画
セザンヌは母が他界してから父の別荘だったジャ・ド・ブッファンの家を売却し、『シャトー・ノワール(黒い館)』という石炭商が建てた黒塗りの家を借りて制作をしていました。
その後は故郷の郊外にアトリエを新築し、大作の制作に力を注いでいきました。
総合時代のサント・ヴィクトワール山
晩年の集大成『大水浴図』
自然と人々が完全に調和し、躍動感あふれる大作としてセザンヌの代表作として有名な『大水浴図』ですが、人間の裸体も、背景の自然も均一に描かれ、絵の中で自然と人間との完全な調和が再現されています。
これらの作品は、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』の作品にもインスピレーションを与えたと言われています。
セザンヌは晩年、ベルナールに宛てた手紙の中で
「絵を描きながら死にたいと願っている。」
エミール・ベルナール『回想のセザンヌ』有島生馬訳 岩波書店〈岩波文庫〉
と語っていたそうですが、まさにその手紙を出した1906年同年の10月に野外制作中に嵐に合い、体調を悪化させ、肺炎で亡くなります。
まさに自身の芸術を貫き通し、絵画芸術の岐路切り開いていった、時代の開拓者としての偉業を成し遂げた生涯を生き抜いたのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
セザンヌの芸術は後に多くの芸術家に影響を与え、20世紀に入ってからその評価が高まっていきました。
特に、第一次世界大戦後になると、セザンヌの作品は現代美術において非常に重要な位置を占めるようになりました。
セザンヌの作品は、1920年代になってから市場に出回り、美術愛好家やコレクターによって注目されるようになりました。
現在では、セザンヌの作品は非常に高額で取引されることがあり、世界中の美術館やコレクターに愛されています。
美術館でセザンヌの作品を鑑賞する機会があったら、ぜひセザンヌの芸術観や人生に思いを馳せながら、鑑賞してみてください。