印象派の代表であるクロード・モネの作品は、作品を見た瞬間から、その風景の中に入り込んでしまうような、独特の没入感がありますよね。
当時モネが見ていた情景の空気感や風、鮮やかな色彩は、まるで自分もそこにいて見ているような感覚にさせてくれます。
そんなモネは「光の画家」とも呼ばれていて、モネが人生をかけて描きたかった作品のテーマはずばり
「うつろいゆくもの」
でした。このテーマにたどり着いたのは、ちょうどモネが借金地獄に陥り、家族との死別など人生で最もしんどい最大のピンチを迎えていた時期に見つかったテーマだったんです。
今回はそんなモネの代表作品と絵のテーマ、モネの人生のエピソードを交えながら、年代ごとに分けて一覧でご紹介していきます。
クロード・モネとはどんな画家?モネの生涯を簡単に解説
クロード・モネは19世紀後半のフランスを代表する印象派の画家です。美しい風景の”一瞬”を描くことにこだわり、生涯自然の光の表現や色彩の効果を生涯追求していきました。
モネの絵はとても心が落ち着くような穏やかで優しい風景画が特徴ですが、実はモネ自身の人生は壮絶な人生を送っていました。40歳くらいまでは、
- 戦争に徴兵されて生死に関わるような大きな病気を経験する
- 愛する妻や家族、親しい友人の死
- 家も差し押さえられるくらいの借金王で、自殺未遂をする
など、生死に関わる病気を発症したり、若くして最愛の妻をなくし、そして金使いも非常に荒くて周りからいつも大金を借金をして、返済に追われるという気苦労の耐えない毎日でした。
モネは40代半ばで画家として大成功し、経済的に落ち着いた暮らしができるまで、とても苦労した画家だったんですね。
彼の最も有名なシリーズの1つに、「睡蓮」があります。これはモネの終の住処であるジヴェルニーアトリエの庭にある池の睡蓮を描いたもので、色彩や光の効果を追求した作品です。
モネは生涯を通じて経済的にも精神的にも苦労しましたが、86歳で亡くなる直前まで白内障で目の病気に悩まされながらも制作に没頭し、睡蓮の大作を完成させ、素晴らしい作品を残しました。
彼の作品は現代でも世界中で愛され、印象派の代表的な画家の1人として称賛されています。そんなモネの代表作品を年代ごとに一覧にして詳しく解説していきますね。
モネの代表的な作品一覧
モネの印象派時代の代表的な作品一覧です。皆さんも一度は目にしたことがある名作ばかりだと思います。
次の章からは、モネの初期の作品からモネの画家になって大成功するまでのエピソードも交えながらご紹介していきます。
モネの少年時代から画家の修行時代
モネは1840年モネはフランスに生まれます。5歳の時にお父さんの事業がモネの叔父さんの家があるフランスのル・アーブルという海辺の街に引っ越し、幼いころから絵ばかり描いている少年でした。
そして学校で素描の先生から教わった似顔絵がとても評判がよくて、モネの似顔絵作品(カリカチュア)は17歳のころから1枚約2万円で売れるほどの高値で、額縁店に並び人気の似顔絵師になる腕前の持ち主だったのです。
そしてモネは似顔絵(カリカチュア)で稼いだ資金200万円を元手にして、反対する親を何とか説得し、絵画を学ぶためにパリに旅立ち画家修業が始まるのでした。
モネの師匠・ブーダンの影響
モネは17歳のときに画家のウジェーヌ・ブーダンに出会い直接指導を受けました。ブーダンはモネの才能を見出し、画家として道を開く手助けをします。
ちょうどモネが絵を描き始めた頃に画家は屋外で風景画を制作することが一般的になった時代でした。ブーダンもその一人の風景画家で、「海景画」のジャンルを確立させた画家でした。
ブーダンは海岸や港の風景を描くことに優れていたため、モネはブーダンから
- 戸外制作
- 光と色の研究
- 風景画の主題(特に水辺の風景)
といった、印象派の基礎になっている「光と色の追求」と「外光主義」、「戸外制作」によって描く風景画の描き方を教えてもらったのでした。これにより、モネは独自のスタイルを確立し、印象派の中心的な画家としての地位を確立していきます。
モネが生涯にわたって水辺の風景を描き続けていたのも、このブーダン師匠の影響でした。
画家見習いモネ、パリで画家として本格修行がはじまる
パリに到着したモネは、安い授業料で自由にデッサンなど学べる絵の学校のアカデミー・シュイスと、シャルル・グレールという画家の画塾で絵を学び始め、そこで後の印象派の仲間になるピサロやルノワール、シスレーやバジールたちに出会います。
21歳の時にくじ引きで兵役にあたり、アルジェリアに兵役にいくのですが、そこで腸チフスという生命に関わる感染症にかかってしまい、急遽22歳でフランスに帰還。本当は7年くらい兵役の期間があったそうなのですが、伯母さんとお父さんが除隊できるよう相当な金額の費用を捻出してくれたおかげでした。
25歳の時にモネはサロン・ド・パリの展覧会で2枚の海の風景画が初入選、次の年にはモネの最初の妻になるカミーユをモデルに描いた作品がサロンに入選し画家として順風満帆の滑り出しでした。
27歳になったモネは、サロンに立て続けに入選できたことに自信がついて、サロンで大作の絵が売れるのを期待して制作に打ち込むのですが、期待が外れて次のサロン展からは落選が続いてしまいます。
金使いが荒すぎ浪費家モネ、借金がかさみ生活が窮地に陥る
モネは30歳まで父から仕送りしてもらって何とか食いつないでいたのですが、とにかく貧乏なのに金銭感覚がブルジョワのお金持ちみたいに使っていたので、その頃から常に周りの人たちに借金をしまくる浪費家だったそう。
そしてサロンに入選して、売れると見込んでた絵が落選し、売れずに生活に困窮していたモネは、友人のバジールの家に住まわせてもらってアトリエを使わせてもらい、同じように貧乏だったルノワールと3人で暮らし生活をしてました。
妻のカミーユと息子のジャンが生まれたときに、カミーユは労働者階級の出身だったことから、結婚を親に認めて貰えず、生活資金の支援を打ち切ると言われてしまいます。
甲斐性なしだったモネは、妻と息子を友人の画家のバジールに任せ、実家にもどり親から生活を支援してもらって絵の制作をするというありさまでした。
普通だったら画家をやめて普通に働きに出ようと思ってしまいそうですが^^;、モネは画家になることを決意した以上、たとえ食べるものが無くなっても、絵を描くこと以外の仕事をしてはならない、それがモネのポリシーだったのですね。
モネの画家の修行時代の作品一覧
モネの印象派を確立し絵画史に革命を起こす
モネが29歳の時、ルノワールとは一緒に暮らすほど仲が良く、生涯お互いに画家として尊敬しあう中で、よく屋外で一緒に制作活動をしていました。
夏のある日セーヌ川沿いにある貸しボートなどを営業する水上レストランがある観光スポットをルノワールとモネはほぼ同時に同じ構図で同じ風景を描きます。
それが印象主義の最初の完成作『ラ・グルヌイエール』です。
このときにルノワールとモネは、屋外で制作するうちに、キャンバスにほぼチューブから出したままの色を置き、速描で一気に描きあげる【ア・ラ・プリマ】という画期的な絵画手法を確率していきました。
モネ30歳、人生のターニングポイントがやってくる
モネが30歳の時に人生がターニングポイントがやってきます。普仏戦争によって、最愛の友人であったバジールが兵役中に戦死、翌年には父が亡くなってしまったことです。
1870年,キャンバス,油彩,54×65cm
,Wikimedia Commons
1872年,キャンバス,油彩,37.7×46cm
,Wikimedia Commons
モネは徴兵から逃れるためにイギリスのロンドンに逃れますが、そこで画商のデュラン=リュエルに出会い、作品を買い取ってもらうことで生計を立てることができたのです。そしてフランスに戻り、アルジャントゥイユの庭付きの家に家族と住むことが出来ました。
戦後に経済が急激に復興することによって、投資家によって投機先として絵画が買われるようになったからです。
この好景気にあやかるために、モネたち印象派のメンバーは1874年、第一回印象派展を開催し、パトロンたちに絵を買ってもらおうという思惑だったのです。そこでモネは「印象、日の出」という印象派の記念碑のような作品を発表し、印象派が誕生したのでした。
モネの印象派が確立した時代の作品一覧
第1回印象派展では、モネの作品は印象派の名前の由来になった「印象、日の出」のほか、5点の油絵が出品されました。
印象派の由来になったモネの「印象、日の出」は、モネのパトロンのエルネスト=オシュデ氏が購入し、当時の印象派はお手頃な値段で5万円から10万円で購入できたそうです。
オシュデ婦人が、当時モネの作品は「私のドレスより安い」と喜んでいたそうですが、その後エルネスト=オシュデは百貨店事業が破産し、海外逃亡。夫人と子どもたちは貧乏画家モネの扶養家族になり極貧生活を送ることになるのでした、、、orz。
第一回印象派展出品作品一覧
1872年,キャンバス,油彩,48×63cm,
マルモッタン美術館,Wikimedia Commons
1873年,キャンバス,油彩,50×65cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1874年,キャンバス,油彩,60×101cm,
個人コレクション,Wikimedia Commons
1873年,キャンバス,油彩,60×80cm,
プーシキン美術館,Wikimedia Commons
1873年,キャンバス,油彩,80.3×60.3cm,
ネルソン・アトキンス美術館,Wikimedia Commons
1868-69年,キャンバス,油彩230×150cm
シュテーデル美術館,Wikimedia Commons
第二回印象派展出品作品一覧
1876年に開催された第2回印象派点は、モネは18点出品します。
水辺の風景のほか、モネ婦人と息子のジャンをモデルに描いた日傘をさす女性や、日本の文化に影響を受けた「ラ・ジャポネーズ」、など、モネの名作が登場します。
1873年,キャンバス,油彩,55×74.5cm,
コートールド美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,59.8×79.8cm,
個人所蔵,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,59.8×79.8cm,
オルブライト=ノックス美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,54.5×65.5cm,
プラハ国立美術館,Wikimedia Commons
1867年,キャンバス,油彩,75.8×102.5cm,
シカゴ国立美術館,Wikimedia Commons
1873-74年,キャンバス,油彩,60×99cm,
個人蔵,Wikimedia Commons
1873年,キャンバス,油彩,54.2×73.3cm,
ハイ美術館,Wikimedia Commons
1874年,キャンバス,油彩,60×80cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1874年,キャンバス,油彩,57×80cm,
アルテ国立美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,231×142.3cm,
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,
オランジュリー美術館,Wikimedia Commons
1872年,キャンバス,油彩,50×65cm
ウォルターズ美術館,Wikimedia Commons
1872年,キャンバス,油彩,50×65cm
ユニオン・リーグ・クラブ・オブ・シカゴ,Wikimedia Commons
1874年,キャンバス,油彩,160×201cm
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,100×82cm
ナショナル・ギャラリー,Wikimedia Commons
第三回印象派展出品作品一覧
1877年第3回の印象派点では8,000人 も来場し、大盛況に終わります。
モネはこの頃から名作「サンラザール駅」の都市の近代化の主題や「アパルトマンの一隅」など、今までと違う方向性の絵の制作に取り組むのでした。
1876年,キャンバス,油彩,60.3×82cm
個人蔵,Wikimedia Commons
1876年,キャンバス,油彩
個人蔵,Wikimedia Commons
1876年,キャンバス,油彩
個人蔵,Wikimedia Commons
1876年,キャンバス,油彩,59.7×82.6cm
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1876年,キャンバス,油彩,54×73cm
マルモッタン美術館,Wikimedia Commons
1874年,キャンバス,油彩,61×78cm
エルミタージュ美術館,Wikimedia Commons
1876年,キャンバス,油彩,175×194cm
エルミタージュ美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,174.5×172.5cm
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1874年,キャンバス,油彩,55×66cm
ベルン美術館,Wikimedia Commons
1876年,キャンバス,油彩
個人蔵,Wikimedia Commons
1867年,キャンバス,油彩,53×62.5cm
ジュネーヴ美術史博物館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,75×104cm
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,65×81cm
マルモッタンモネ美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,83×101.5cm
フォッグ美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,59.6×80.2cm
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩
個人蔵,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩81×60cm
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,116×88cm
個人コレクション,Wikimedia Commons
第四回印象派展出品作品一覧
1879年第4回印象派点では、29点出品し、参加者も1万5千人以上の大盛況となりますが、印象派の内部のメンバーで意見の対立が起きて、モネも借金やパトロンの破産で、経済的にかなり困窮していた時期に開催された展覧会でした。
そんな大変な状況とは思えない豊かで美しい景色ばかりです。
1865年,キャンバス,油彩,48.6 x 64.8cm
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1871年,キャンバス,油彩,45 x 60cm
個人所蔵,Wikimedia Commons
1879年,キャンバス,油彩,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1869年,キャンバス,油彩,
ゲッティセンター,Wikimedia Commons
1878年,キャンバス,油彩,81×50cm,オルセー美術館,Wikimedia Commons
1870年,キャンバス,油彩,54×65.7cm,ハンガリー国立美術館,Wikimedia Commons
1882年,キャンバス,油彩,60.6×81.6cm,
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1879年,キャンバス,油彩,56.2×73.4cm,
個人所蔵,Wikimedia Commons
1878年,キャンバス,油彩,54.6×66cm,
個人所蔵,Wikimedia Commons
1879年,キャンバス,油彩,58.1×80cm,
フリック芸術歴史センター,Wikimedia Commons
1867年,キャンバス,油彩,82×100cm,
個人所蔵,Wikimedia Commons
1878年,キャンバス,油彩,
アンドレマルロー近代美術館,Wikimedia Commons
1879年,キャンバス,油彩,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1878年,キャンバス,油彩,
スコットランド国立美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,54×66cm
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,59×78cm
マルモッタンモネ美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,53×64cm
マルモッタンモネ美術館,Wikimedia Commons
1875年,キャンバス,油彩,60×81.6cm
カーネギー美術館,Wikimedia Commons
1877年,キャンバス,油彩,53.8×65.1cm
ポーラ美術館,Wikimedia Commons
第7回印象派展出品作品一覧
印象派点は第8回まで開催されますが、5回、6回は不参加で、1882年に開催された第7回が最後の出品となりました。
35点モネは出品しますが、この展覧会ではモネは高く評価され、ひまわりや拓けた海の景色明るい色の風景が多く、人生が拓けたモネの明るい兆しを表現しているようですね。
1880年,油彩,キャンバス,99.6 x 73 cm ,
ナショナル・ギャラリー、ワシントン,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,101 x 81.3 cm ,
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1880年,油彩,キャンバス,101 x 81.3 cm ,
オスカーラインハルトコレクション,Wikimedia Commons
1880年,油彩,キャンバス,97 x 150 cm ,
シェルバーン博物館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
個人蔵,Wikimedia Commons
1878年,油彩,キャンバス,61×80cm
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,82×65cm,
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
ノートン・サイモン美術館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,73×59.7cm
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,60×100cm
ロー財団,Wikimedia Commons
1880年,油彩,キャンバス
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,58×79cm
ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,65.5×81cm
クリーヴランド美術館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,65.5×81cm
クリーヴランド美術館,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
個人蔵,Wikimedia Commons
1881年,油彩,キャンバス,
個人蔵,Wikimedia Commons
1880年,油彩,キャンバス,66×81.3cm
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1880年代の人物画の作品一覧
1872年,油彩,キャンバス,60.6×74.3cm
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1873年,油彩,キャンバス,131×97cm
個人蔵,Wikimedia Commons
1868-73年,油彩,キャンバス,99×79.8cm
クリーブランド美術館,Wikimedia Commons
1875年,油彩,キャンバス,55.3×64.7cm
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1875年,油彩,キャンバス,65.4×55.9cm
バーンズ・コレクション,Wikimedia Commons
1876年,油彩,キャンバス,72.7×60cm
バーンズ・コレクション,Wikimedia Commons
1880年,油彩,キャンバス,46×38cm
マルモッタン・モネ美術館,Wikimedia Commons
1887年,油彩,キャンバス,145.5×133.5cm
国立西洋美術館,Wikimedia Commons
1887年,油彩,キャンバス,80.2×80.5cm
三菱一号美術館(寄託),
1873年,油彩,キャンバス,61×82.5cm
ナショナル・ギャラリー、ワシントン,Wikimedia Commons
モネの旅の風景
1880年代からモネは「売れる風景画」を描くため、度々各地に旅行に行き、景勝地などを訪ねて風景画を描いていました。
光・天候・季節にこだわり、同じ構図で同じ情景を違った時間帯で描くことを繰り返し描き、モネの描画スタイルを確立していきました。
1882年,キャンバス,油彩,66.5×82.3cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1883年,キャンバス,油彩,65.4×81.3cm,
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1884年,キャンバス,油彩,116.5×136.5cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1888年,キャンバス,油彩,65.5×92.4cm,
コートールド美術館,Wikimedia Commons
1886年,キャンバス,油彩,65×81cm,
プーシキン美術館,Wikimedia Commons
1908年,キャンバス,油彩,73.7×92.4cm,
サンフランシスコ美術館,Wikimedia Commons
1908年,キャンバス,油彩,65.2×92.4cm,
ウェールズ博物館,Wikimedia Commons
1895年,キャンバス,油彩,73.4×92.5cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1897年,キャンバス,油彩,65.6×92.8cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1890年,キャンバス,油彩,61.2×93.4cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1908年,キャンバス,油彩,66.2×81.8cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
モネの静物画
179-80年,キャンバス,油彩,66.5×82.5cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1878年,キャンバス,油彩,54.3×65.2cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1878年,キャンバス,油彩,53.5×61cm,
個人蔵,Wikimedia Commons
借金王モネが人生の大ピンチの時に見つけた生涯のテーマ
カリュロス=デュラン『アリス・オシュデ夫人の肖像』
1872-78年,キャンバス,油彩,55.9×38.1cm,
ヒューストン美術館,Wikimedia Commons
戦後の好景気により、絵画市場はバブルを迎え、多くの人々が絵画が思惑通りに売れ続けると予想しました。しかし、モネはその予想とは裏腹に、フランスが大恐慌に見舞われ、景気が急速に悪化することになります。
パトロンたちも財政状況が悪化し、最大のパトロンだったデュランリュエルが絵画の買い取りをやめざるを得なくなります。また資産家のエルネスト・オシュデが百貨店の事業に失敗し、破産してしまいました。彼は海外に逃亡し、妻と子供たちを残してしまったのです。
モネはオシュデにも経済的に全面的に頼っていた上、しかも、アルジャントゥイユで生活にお金がかかりすぎて家賃が払えなくなり、作品を借金をの肩代わりに、家も差し押さえられて強制退去させられてしまったところだったのです。
しかもモネは自身が一文無しの大変な状況にもかかわらず、破産して住む場所を失ったオシュデ夫人アリスと、6人の子供たちを養うことにして、モネの奥さんと子供2人の合計10人の大家族の大黒柱になる決心をしたのでした。
住む場所とパトロン、2つの生活基盤を失ったモネが迎えた人生最大のピンチ
住む場所と経済的な後ろ盾の2つを同時に失い、そして更に他人の家族7人分まで養うことになってしまったモネは、この逆境を乗り越えるべく、マネに引越し費用を借りて、セーヌ川から50キロくらい離れた小さな村のヴェトゥイユに引っ越しました。
クロード・モネ『ヴェトゥイユの雪の効果』
1878-79年,キャンバス,油彩,52.5 × 71cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
当時のモネは、何度も経済的支援や収入が途絶えて飢え死にしそうな局面を何度も乗り切り地獄を味わってきたので、このくらいは大したことないと、肝が座っていたんですね。
単純に自分がもっと絵を描いて稼いでいけばいい。そして絵を売るにはどうすればいいかと考え、行動していくのみだとやるべきことが分かっていたのです。
クロード・モネ『ヴェトゥイユのモネの庭』
1881年,油彩,キャンバス,151.5×121cm
ナショナル・ギャラリー、ワシントン,Wikimedia Commons
モネの当時の借金額は相当莫大だったそうですが、生活の質は落とさず、美味しい食事を愉しみ、自分のことは決して貧乏だと思わなかったそうです。
モネを襲う、さらなる悲劇、最愛の妻の死
1879年,油彩,キャンバス,90×68cm,
オルセー美術館,Wikimedia commons
しかし、そこに追い打ちをかけるように、さらなる悲劇がモネを襲います。
モネの妻のカミーユは次男を出産してから次第に体調が衰弱し、32歳の若さでこの世を去ってしまったのです。妻の死ぬ間際にモネは筆をとり、無意識に妻の死の瞬間を描いていました。この時モネは
「かつてあれほど愛おしんだ女性の死の床で、私はもはや動かなくなった彼女の顔に、死が加え続ける色の変化を機械的に写し取っている自分に気づいた」
クレマンソーによる引用、モネの言葉 (モネ作品集 安井 祐雄著 東京美術)より
と語り、最愛の妻が亡くなる瞬間まで自分は無意識に筆をとってしまったことに罪悪感に苛まれ、モネは妻が亡くなってから、しばらく絵が描けなくなってしまったそうです。
オシュデ婦人のアリスはそんな孤独になってしまったモネを献身的に支え、いつしか本当に夫婦になり、再婚したのでした。そして子どもたちとアリスを養うため、猛烈に絵を描くことを決心するのでした。
1880年,油彩,キャンバス,100 × 150 cm,ダラス美術館,Wikimedia Commons
そして8回続いた印象派展では中々思うように作品は売れず、サロンに出品して成功していたルノワールを見習って、モネもサロンに出展、見事に一枚の絵が入賞し絵が売れた収益を得ることができたのでした。
しかし、絵が一点売れただけでは、モネは8人の子どもたちとを養うには足りず、何か話題になることをしなければと模索していたんですね。
壮絶な逆境を乗り越え、モネは人生をかけて追いかけたい主題を見つける
1880年,油彩,キャンバス,97 × 148 cm
シェルバーン美術館,Wikimedia commons
そこでモネの妻のカミーユが亡くなった年の冬、フランスで前代未聞の寒波が襲ったことで、凍りついたセーヌ川や、巨大な氷がぶつかりながら流れていく様子を17枚の絵にして、翌年の6月にモネは「大寒波」をモチーフにした作品の個展を開き、新聞でも取り上げられるくらい好評だったのです。
1880年,油彩,キャンバス,Wikimedia commons
1880年,油彩,キャンバス,60 × 100 cm
ティッセン=ボルネミッサ美術館,Wikimedia commons
そして春になって氷河が溶けていくのですが、その様子を見て、モネは自分がどんなに辛いことがあったとしても
「この世界は一刻たりとも止まってはいない。同じ風景を見ているようでも、時間が流れている限り、それは一瞬しかない。その移りゆく世界を、自分はカンヴァスの中にとどめたい」
「モネのあしあと 私の印象派鑑賞術」原田マハ 著 幻冬舎 p96より
という原田マハさんの著書、「モネのあしあと」という本にモネの心情を表した一節があり、そこからモネは一つの同じ風景を違う時間帯ごとに何枚も描く連作に取り組んでいきました。
1880年,油彩,キャンバス,60.3 × 99.8 cm
ミシガン大学美術館,Wikimedia commons
そして世界の刻一刻と変化していく美しい風景の一瞬をキャンバスに描き出すという、生涯のテーマがそこで見つかったんです。
そしてこれがモネが移ろいゆく世界の一瞬をキャンバスに描いていくきっかけになり、モネはその後から様々な風景の連作を描くことになりました。
画商のデュランリュエルが定期的にに作品を大量に購入してもらう契約を取ることができ、モネの経済基盤はやっと安定。それからモネは光と色彩のおりなす景色の一瞬をさまざまな連作として描き続けたのです。
1888年,キャンバス,油彩,74×92.5cm,
ナショナル・ギャラリー、ロンドン,Wikimedia commons
1893年,キャンバス,油彩,66×100.3cm,
メトロポリタン美術館,Wikimedia commons
モネの連作が大量注文契約を獲得し大ヒット!中期の作品一覧
1897年,キャンバス,油彩,(88.9 x 91.4 cm,
ノースカロライナ美術館,Wikimedia commons
モネは印象派展や個展での成功から、パトロンだったデュランリュエルから大量に作品を定期購入する契約を結べたことで、安定した収入を得ることができるようになります。
そしてモネはジヴェルニーに広い庭のある家を購入し、住めるようになります。それからモネは
- 積みわら
- ポプラ並木
- 大聖堂
- セーヌ川
- ロンドンの国会議事堂
- ノルウェー
などの連作を生涯描き続けました。
クルーズ渓谷の連作
1889年,キャンバス,油彩,66×93cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1889年,キャンバス,油彩,
ランス美術館,Wikimedia Commons
1889年,キャンバス,油彩,73.5×92.5cm
フォン・デア・ハイト美術館,Wikimedia Commons
積みわらの連作
積みわらの連作は、ロシアで展示された時に、抽象画家のカンディンスキーは積みわら以外に人物など主題になるような対象物がないことに困惑し、「主題がなくても芸術が成立する」という既成概念から脱却して抽象絵画を誕生させることができました。
モネは四季折々様々な時間帯、様々な天候の条件の元積みわらの連作を描いていましたが、
「(積みわらの)さまざまな光の効果の連作に夢中なのですが、近頃は陽が早く沈むので、追いつくことができません。しかし描き進むに従って、私が求めていたもの、瞬間性、とりわけ周囲を包むもの、いたるところに輝く均一な光を表現するためには、もっと努力しなければならないのです」
ギュスターヴ・ジェエフロワ宛の手紙 1890年 モネ作品集 安井祐雄著 東京美術より
と語っていたように、モネにとって積みわらのモチーフはより「うつろいゆく瞬間」の光を表現するために最適だったのです。
1888-89年,キャンバス,油彩,65×92cm
埼玉県立近代美術館,Wikimedia Commons
クロード・モネ『積みわら、日没』
1891年,キャンバス,油彩,73×92cm
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1891年,キャンバス,油彩,65×92cm
個人コレクション,Wikimedia Commons
1890-91年,キャンバス,油彩,65×92cm
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1885年,キャンバス,油彩,64.9×81.1cm
個人所蔵,Wikimedia Commons
1890年,キャンバス,油彩,65.6×100cm
オーストラリア国立美術館,Wikimedia Commons
ポプラ並木の連作
1891年,キャンバス,油彩,82×82cm,
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1891年,キャンバス,油彩,93×75cm,
国立西洋美術館,Wikimedia Commons
1891年,キャンバス,油彩,100×74cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
ルーアン大聖堂の連作
1894年,キャンバス,油彩,100.1×65.8cm,
ナショナル・ギャラリー、ロンドン,Wikimedia Commons
1892-94年,キャンバス,油彩,99.7×65.7cm,
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1894年,キャンバス,油彩,100.1×65.9cm,
ナショナル・ギャラリー、ロンドン,Wikimedia Commons
1892年,キャンバス,油彩,100.4×65.4cm,
ポーラ美術館
1892年,キャンバス,油彩,100.4×65.4cm,
J・ポール・ゲティ美術館,Wikimedia Commons
セーヌ川の連作
1897年,キャンバス,油彩,82×93.5cm,
ひろしま美術館
1897年,キャンバス,油彩,73.5×93cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1897年,キャンバス,油彩,89.9×92.7cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
国会議事堂の連作
1903年,キャンバス,油彩,81.3×92.5cm,
ナショナル・ギャラリー、ロンドン,Wikimedia Commons
1903-04年,キャンバス,油彩,81.3×92.4cm,
メトロポリタン美術館,Wikimedia Commons
1903年,キャンバス,油彩
ブルックリン美術館,Wikimedia Commons
1902年,キャンバス,油彩,81.6×93cm
個人コレクション,Wikimedia Commons
1900-01年,キャンバス,油彩,81×92cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1900-01年,キャンバス,油彩,81×92cm,
マルモッタン美術館,Wikimedia Commons
ロンドン、ウォータールー橋の連作
1903年,キャンバス,油彩,65.7×101cm,
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
1903年,キャンバス,油彩,65.4×100cm,
個人コレクション,Wikimedia Commons
1903年,キャンバス,油彩,65.1×100cm,
ナショナル・ギャラリーワシントン,Wikimedia Commons
1900年,キャンバス,油彩,65.4×92.7cm,
サンタバーバラ美術館,Wikimedia Commons
チャリング・クロス橋の連作
1900年,キャンバス,油彩,60.6×91.5cm,キャンバス,油彩
ボストン美術館,Wikimedia Commons
1901年,キャンバス,油彩,65×92.2cm,キャンバス,油彩
シカゴ美術館,Wikimedia Commons
ノルウェーの連作
1895年,キャンバス,油彩65.5×100.5cm,
オルセー美術館,Wikimedia Commons
1895年,キャンバス,油彩
個人所蔵,Wikimedia Commons
経済的に大成功したモネの中期以降〜晩年、モネは自宅に自慢の庭園を作る
1915-26年,キャンバス,油彩,200×425.4cm
ネルソン・アトキンス美術館,Wikimedia Commons
モネが43歳のときに、8人の子供たちを学校に通わせるために、評判の良い学校があるときいて訪れた街がジヴェルニーだったのですが、そこがまさにモネの代表作、睡蓮の池のある美しい庭園のある理想郷のような家だったんですね。
1916年,キャンバス,油彩,140×150cm
,Wikimedia Commons
1914-17年,キャンバス,油彩,200×150cm
マルモッタン美術館,Wikimedia Commons
モネが晩年睡蓮の大作を描き、見事な庭園を完成して、亡くなるまで睡蓮を描いていきました。モネの晩年の作品は没後30年はあまり評価されず、近年になってモネの作品の価値が高騰してきました。
1919年,キャンバス,油彩,100.4×201cm
個人所蔵,Wikimedia Commons
2008年のロンドンのオークションでは、晩年の睡蓮の作品が86億8000万円で落札され、モネの史上最高値を更新しました。
睡蓮の連作の作品一覧はこちらの記事に掲載されています。↓よろしければご覧ください!
モネに関連するQ&A
モネの総作品数は?
モネの総作品数は数千点にのぼるといわれており、正確な数はわかっていませんが、モネの総作品をカタログ化したDaniel Wildenstein が編さんした “Catalogue Raisonné de l’Oeuvre Peint de Claude Monet” があります。
このカタログには、モネの絵画作品が詳細に記載され、約2,000点以上の作品が掲載されています。このカタログの最終版が出版されたのは1974年で、その後追加された作品は含まれていません。
また、『もっと知りたいモネ 生涯と作品』(高橋明也 監修,安井裕雄 著)の56ページには、
「睡蓮」の作品群はおよそ300点にも及び、画家の生涯の全制作数の七分の一を占める
『もっと知りたいモネ 生涯と作品』(高橋明也 監修,安井裕雄 著)
と書かれていたことから、モネの全制作総数は2,100点ほどだと予想できます。
モネの最後の作品は?
1914-26年,キャンバス,油彩,200×1275cm
オランジュリー美術館,Wikimedia Commons
モネが亡くなる直前まで描いていた作品は、パリのオランジュリー美術館に展示されている「睡蓮の大装飾画」が彼の最後の作品とされています。
これらの大きな装飾パネルは、、モネの最晩年の数年間に彼の視覚的な状態が衰える中で制作されました。これらの作品は、彼が没する直前の数年間に制作されたものです。
モネの晩年に患った病気について
(画像はWikimedia より)
モネは晩年、水晶体の混濁による白内障を患っていました。1908年に白内障が発症し、失明の危険に瀕して1923年に周囲からの説得もあり、手術を決意して、かろうじて視力が保たれました。
この病気によって、術後の目の保護のため、モネは色のついたメガネをかけなければならず、色彩が分かりづらくなってしまい、モネを悩ませました。
そしてこの影響によって、絵画スタイルがより抽象的で印象的になる傾向があったと言われています。晩年には、この視覚上の障害にもかかわらず、彼は睡蓮の庭園を描いて制作活動を続けました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
モネは生涯にわたってこの世界の「移ろいゆくもの」を追い求め、どんなことがあっても描き続けた画家でした。温和な人柄と絵画のイメージとは裏腹に、波乱万丈の人生だったモネ。
生涯かけて表現したかったモネの「移ろいゆく」世界は作品にしっかり刻まれており、今もモネが見た当時の空気感、美しい情景、温かい光を作品から感じることができます。
晩年は目の病気によって、色彩や見え方が芳しくないにもかかわらず素晴らしい大作を仕上げた画家魂は本当に圧巻です。
美術館でモネの作品を鑑賞する機会があったら、ぜひモネが描きたかった世界に思いを馳せて、移ろいゆく”一瞬”に浸ってみてくださいね。