『印象派』の名称の由来にもなった、クロード・モネの名作『印象、日の出』。
フランスの敗戦後、産業革命の真っ只中に描かれたこちらの作品は、フランスで1874年に開催された第一回印象派展に出展されました。
その作品名から「印象派」が生まれ、後の美術界に革命を起こしていく作品となりました。
しかし、当時は主流だった宗教的な絵画や写実的な描き方とはかけ離れており、ただの風景画を題材にした作品は、絵画としての芸術的価値が低かったため、当時相当な酷評を受けました。
今回は、当時の絵画の世界に革命をもたらしたモネの傑作『印象、日の出』について、時代背景なども解説しながら、詳しくご紹介します。
謎多きクロード・モネの名作『印象、日の出』を徹底解説
印象派の名前の由来にもなったモネの『印象、日の出』は、モネが32歳の時に生まれ故郷である、フランスのル・アーブル港を描いた作品です。
第一回印象派展に出展され、この作品の「印象、日の出」というタイトルから、今までの絵画史になかった、『印象派』という新しい絵画の表現手法が確立されました。
また、この作品が描かれた当時は、フランスは普仏戦争の敗戦直後、復興のさなかでした。そして産業革命によって、新しい時代へと移り変わろうとしていた激動の時代だったのです。
そんな中、モネの生まれ故郷であるフランスのル・アーブル港を描いた「印象、日の出」。モネはどんな思いでこの絵を描いたのでしょうか。
作品が描かれた時代背景や、『第一回印象派展』がどのようなものだったのか、また絵画史に革命をもたらした理由はなんだったのか、詳しくご紹介していきます。
朝やけのぼんやりとした景色の中から見えてくる、当時の街並みや人々の暮らし
『印象、日の出』クロード・モネ
1872年、パリ、マルモッタン美術館
48×63cm、キャンバス・油彩
Public domain, via Wikimedia Commons
モネは1872年の11月、生まれ故郷であるル・アーブルで、港が見えるホテルに滞在し、こちらの作品を描きました。
絵をじっくり見てみますと、やや荒々しい筆跡で、遠くの工場からは煙が立ち込め、もやがかかったような空、遠くには工場から出た煙の灰色で、全体がぼんやりと霧に覆われているようです。
この日の出の風景は、一般的に想像するような穏やかな日の出のイメージとは裏腹に、どこか慌ただしいような、落ち着かない朝という雰囲気を感じます。
そして霞がかった空の中心には、太陽だけがひときわはっきりと印象的に描かれています。
『印象、日の出』は戦後復興の象徴だった?描かれた時代背景とは
Franco-Prussian War 1870-71, Battle of Mars-la-Tour from “Canadian Illustrated News” Date: 19 November, 1870
Pagination: vol. II , no. 21 , 336, Franco-Prussian War, 1870-71
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
この頃のフランスは、普仏戦争でプロイセン王国に敗戦した直後で、国を上げての経済復興に燃えていた時期でした。
そのため、早朝から工場を稼働させ、左手の奥には大型の蒸気船や工場が林立し煙が当たり一面に立ち込めています。
また遅れていた産業革命の進行を取り戻すため、人々は朝早くから懸命に働いていたことを伺わせます。
またこの時期ル・アーブル港は大規模な開発工事が行われており、右奥には土を掘るためのクレーン、真中には水門が描かれています。
そしてひときわ朱色が鮮やかな日の出がくっきり描いており、国の再建に向けて、勢いよく動き出したフランスの人々の希望を、太陽に重ねて描いていたのかもしれません。
日没?を描いていたのではという疑惑が浮上
『印象派の歴史』の著者ジョン・リヴォルト氏は、「日没」を描いたという説を提唱しており、日の入りを描いたのでは?という憶測も広く浸透しており、物議になっていました。
しかし、2014年にマルモッタン美術館が、アメリカ・テキサス州の天文学者のドナルド・W・オルセン博士と当時の太陽の位置や潮位、気象記録などを照らし合わせて検証した結果、1872年11月13日の朝7:35分くらいの日の出景色ということが証明されました 。(東京都美術館『モネ展』より)
『日の出、海』 クロード・モネ
1872 or 1873年,キャンバス、油彩, 50.2 × 61 cm
No Copyright – The J. Paul Getty Museum, Los Angeles
ル・アーブルは現在のフランスのだいたいこの辺りです↓。また、当時のル・アーブル港は、第二次世界大戦の際に爆撃によって破壊されてしまいました。
『印象、日の出』を描いた絵画技法は?
モネの描き方は、後に印象派の画家が用いた『筆触分割』という技法を使っていました。
伝統的な写実的で繊細な描き方とは異なり、大胆なタッチで一筆一筆色を置いていき、画面上で色を混ぜ合わせず、筆のタッチを残して描く技法です。
近くで見ると、色々な色が重ねられているのが見えてきます。
一筆一筆、微妙に異なる色を隣に置いていくことで、離れて見た時、となり合わさった色が、視覚効果で混ざり合ったように見えて色が調和します。
それによって、絵の具本来の鮮やかな色を損ねることなく、豊かな色彩表現が出来るようになったのです。
ル・アーブル港を描いたモネの作品
モネは度々故郷のル・アーブル港を題材に風景画を描いていました。『印象、日の出』とはまた違った、活気あふれる港の近景や、当時の人々の様子や街の雰囲気が伝わってきます。
1874年,キャンバス・油彩,60cm×101cm
Public domain, Private collection,via Wikimedia Commons
1873年,キャンバス,油彩,
Private Collection,Public domain, WikiArt
1872年,キャンバス・油彩
Hermitage Museum, Saint Petersburg, Russia,,Public domain, WikiArt
1867-1868年,キャンバス・油彩,50.2 x 61.3 cm,
Norton Simon Art Foundation,Public domain, via Wikimedia Commons
1874年,キャンバス・油彩,
Public domain,WikiArt
酷評を受けた第一回『印象派展』
Español: Portada del catálogo de la primera exposición impresionista, en 1874
引用元:http://www.nadar1874.net/catalogo.html
モネの『印象、日の出』が描かれた約2年後の1874年4月15日、モネやルノワール、ピサロやシスレーを中心にグループ展を開催しました。
新しい絵画や芸術の本質と正面から向き合っていた印象派のメンバーたちは、自分たちでお金を出して展覧会を開催したのでした。
当時は個展を開催することは一般的でなく、通常はサロンといって、パリの公の官立の展覧会に出展して、批評家から称賛や評価を得て、絵画を販売することが主流でした。
しかし、購入者は芸術の教育を受けて、絵画に精通している人ばかりではありませんでした。
宗教的な主題や美しい寓話や感動的な物語を美しく描いている作品が最高の芸術作品とされていたので、ただ風景を描いただけの作品には価値がないとみなされていました。
そんな古い慣習に囚われて、新しいものを受け入れない伝統的な体制に反旗を翻して、本当の芸術のあり方を求めた画家たちは各々アカデミックな技法から逸脱して、独自の表現手法を確立していったのです。
第一回印象派展はどのようなものだった?
画像引用元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Atelier_Nadar_35BoulevardDesCapucines_1860_Nadar.jpg
Nadar, Public domain, via Wikimedia Commons
1874年4月15日、約30名の画家によって、165点の作品を、写真家、ナダールのアトリエを借りて開催されました。
古典的なサロンとは一線を画していた画家たちが集い、一人60フランずつ年会費として払えば出展できるシステムでした。
また画家たちは批評家から「新しい流派」などの変なレッテル貼りや、噂話を嫌がったため、グループ展の名称を決めるのには慎重になっていました。
あくまで中立な立ち位置を示したいとの意向から、展覧会の名称は、『画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展』になりました。
当時モネやルノワールは33歳、ピサロは43歳、セザンヌは35歳と主要なメンバーは比較的若く、世間ではサロンで落選した絵の展覧会と嘲笑されたのでした。
1ヶ月ほど会期があり、ほぼ一日中観覧できる形で開催していましたが、ほとんどのお客さんは冷やかしを含め、主に嘲笑のために来場していたようです。
ある批評家は、
この画家たちはピストルに数種の絵具チューブを入れカンヴァスに向けて発射し、あとはサインをして完成させたのだ。
ジョン・リウォルド,三浦 篤,坂上 桂子. 印象派の歴史 下 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.316-317). Kindle 版.より
と極めて辛辣な感想ばかりで溢れていました。
また、第一回展の総入場者数は3,500人で、ほとんどの画家は会費を回収できずに終わり、また会社の資本などの借金で赤字になってしまいました。
印象派展の名付け親は批判を込めて書かれた雑誌が発端だった
シャム『 Caricature on Impressionism』1874年
Cham (Amédée de Noé), Public domain, via Wikimedia Commons
印象派の名付け親は、皮肉にも印象派の画家たちを批判していたルイ・ルロワが風刺新聞『ル・シャリヴァリ』に【印象派の展覧会】という記事を出したことがきっかけでした。
伝統から外れた荒いタッチで描かれた作品を皮肉を込めて「印象派」と呼んだのでした。
もちろん、モネの『印象、日の出』の作品タイトルからインスピレーションを受けたものですが、元々この作品は、印象というタイトルはついていませんでした。
ことの発端は、ルノワールの弟が展覧会のカタログの編集を担当していた際、モネの作品があまりに多く、また作品名が『村の朝』、『村の入口』、『村からの出発』といったように、どれも単調でした。
そこで良いタイトル案はないかと訪ねたところ、「それなら印象とつけ加えてください」と言って、作品名が『印象、日の出』になったというエピソードがあります。
モネは後にこのように語っています。
「カタログ用に題名をつけるよういわれたのですが、ル・アーヴルの風景ともあまり呼びたくなかったので、『印象とつけ加えて下さい』といったのです」
ジョン・リウォルド,三浦 篤,坂上 桂子. 印象派の歴史 下 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.300-302). Kindle 版.
一度盗難にあうも、現在はマルモッタン美術館に展示
現在はマルモッタン美術館に展示されいてる「印象、日の出」ですが、値段がつけられないほどの価値があるそうで、過去に一度、盗難にあっています。
国際的な犯罪集団が高額な絵画が多数展示されている美術館が標的にされ、1985年10月、武装した窃盗団が白昼堂々とモネやルノワール、モリゾなどの名画を盗んでいきました。
またバブルで景気が良かった日本は、絵画の高額落札国として世界から注目されていました。
そこで犯罪者集団は日本で盗んだ絵画を売りさばこうとしますが、名画の盗難事件は日本中で広がっていたため、売ることができなくなってしまいます。
その代わりに企てたのが「有楽町3億円事件」で有名な現金の強盗事件です。主犯格の犯人は潜伏先のメキシコで逮捕され、『印象、日の出』ほか盗まれた絵画は、5年後に発見され、無事マルモッタン美術館に帰ってきました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
印象派の画家たちが世間に認めてもらえるようになるまでは、決して平坦ではない栄光の道のりではありませんでしたが、彼らが芸術に対して真摯に向き合い、伝統的なサロンの圧力にも屈せず、自らの芸術の形を貫いて作品を描き続けていたおかげで、素晴らしい名作が多数生まれました。
今では日本でも印象派の絵画は人々から愛され、支持されている作品が多いですが、それまでの美術の歴史に革命をもたらし、時代の変遷を担った立役者だったのです。
当時の画家たちの思いや時代背景に思いを馳せて鑑賞してみると、また違った見方が出来ますので、ぜひ、美術館でも印象派の絵画を見たら思い出してみてください。